淑徳与野高等学校への合格体験記 中1から学習開始時の偏差値65(23339) THE義塾出身
- 回答者
- 保護者
- 学習開始時の偏差値
- 65
- 受験直前の偏差値
- 67
- 学習時間
- 一日2〜3時間
- 月額費用
- 40,000〜50,000円
受験者のプロフィール
進学前に通っていた学校
公立 中学校志望していた学校・受験結果
志望順 | 学校名 | 合格判定 | 受験結果 |
---|---|---|---|
1 | 淑徳与野高等学校 | C判定 | 合格 |
2 | 本庄東高等学校 | B判定 | 合格 |
3 | 東京農業大学第二高等学校 | B判定 | 合格 |
4 | 高崎健康福祉大学高崎高等学校 | A判定 | 合格 |
進学した学校
淑徳与野高等学校通塾期間
- 中1
-
- THE義塾に 入塾 (集団指導(少人数)/個別指導)
- 中1夏
-
- 夏期講習受講
- 中1冬
-
- 冬期講習受講
- 中2春
-
- 春期講習受講
- 中2夏
-
- 夏期講習受講
- 中2冬
-
- 冬期講習受講
- 中3春
-
- 春期講習受講
- 中3夏
-
- 夏期講習受講
- 中3冬
-
- 冬期講習受講
学習開始時偏差値分布
1日あたりの学習時間推移
塾の授業 | 家庭・自習 | |
---|---|---|
中1 | 1〜2時間 | 1〜2時間 |
中2 | 1〜2時間 | 1〜2時間 |
中3 | 2〜3時間 | 2〜3時間 |
受験時の得意科目・苦手科目
得意科目
国語
苦手科目
数学(算数)
受験者の口コミ
受験の結果
すべての志望校に合格したため
受験活動全体を通して、特に実践してよかったこと
・自発的に勉強する環境を作ったこと
受験勉強だけでは精神的にも追い込まれる可能性があり、また、長い人生の対セッツな友人との関係性を形成するために、受験勉強だけではなく学校の行事や部活もきちんと行うことで、生活のリズムや体力の維持に努めることができた。
もし受験活動開始時に戻れるとしたら、当時の自分にどんなアドバイスをしますか?
学校の生活が基本。
志望校選び
志望校を決める際にもっとも役立ったもの
学校見学・オープンキャンパス
塾からいろいろな情報をたくさん得るつもりでいたが、思ったより群馬県外の受験情報が乏しく、自分たちで集めることで必要であった。県を超えるとなかなか情報が入りにくくく、直接学校見学で情報を得ることが最も有効な方法であった。
志望校を決める際にどんなレベル分けをしていたか
本命 | 自身の偏差値+5以上 |
---|---|
滑り止め | 自身の偏差値-5以下 |
チャレンジ校 | 自身の偏差値+10以上 |
なんとなく
もし受験活動開始時に戻れるとしたら、志望校を選ぶにあたって当時の自分にどんなアドバイスをしますか?
最後まであきらめない
塾での学習
受験時に通っていた塾
ココがポイント
- 学習システムが裏付ける“とことん指導”で高度な学力を定着させる
- 自由に選べるコース、内容・回数・日程・時間割で受験を目指す
- 受験指導のエキスパート、ベテラン講師が生徒・保護者をサポート
塾の費用について
通塾頻度 | 月額の費用 | |
---|---|---|
中1 | 週2日 | わからない |
中2 | 週3日 | わからない |
中3 | 週3日 | わからない |
塾を選んだ理由
家から近所であったため、ママ友の間の評判が良かったため。
通塾することで最も大きく変化したこと
◎予習/復習など自習の習慣がついた
もともと自分から勉強をすることがなく、またどのように勉強したらよいか迷っている様子であったが、塾があることで勉強するリズムができたこと、勉強をする方法のアドバイスを聞けることで、自然と勉強する癖がついた。
通塾することで変化したこと
・予習/復習など自習の習慣がついた
併塾の経験はありますか?
いいえ
転塾の経験はありますか?
いいえ
もし受験活動開始時に戻れるとしたら、塾での活動について当時の自分にどんなアドバイスをしますか?
楽しく学んでほしい。
塾以外の学習
サポート体制
家庭での取り組み
・受験勉強だけでなく、お手伝いや学校生活なども大切にするよう心がけた
前述通り。(まずは基本的な生活リズムを大切にすることを最優先し、受験勉強よりも学校の勉強や行事にしっかり取り組むようにした。そのことで生活にメリハリができたり友人との関係性が良くなり、受験勉強を乗り切れたような気がする。)
もし受験活動開始時に戻れるとしたら、家庭での活動について当時の自分にどんなアドバイスをしますか?
まずは健康管理が第一。つい勉強のことが心配となって、食事を飛ばしたり夜更かしすることがないように気を付けた。またコロナ禍であったため感染症のリスクをできるだけ減らすように周りの家族が気をつけながら、本人にはできるだけ同じ生活をさせていた。